有心の百錬、鋼を成す!

常に自分の成長を目指して!

コミュニティの大切さ 産業革命の負の遺産

最近になって結婚しない若者も増え、核家族が当たり前になり、個人が孤立するのが

目立ってきています。孤独な老人も社会問題です。

しかし、いつの間にかこの状態が常態化して、気にする人も少ないのでは

ないでしょうか。

では、いつ頃から我々の家族形態が変わってきたのでしょう?

 

時代の転機は産業革命まで遡ります。

産業革命以前の中世の人々は一族を家族単位としたコミュニティを形成していました。

そこでは、親の仕事を子供が助けたり、子供の面倒を親戚が見てくれたり、

誰かが病気になれば、看病をしたり、盗賊がでれば、家族総出で警戒にあたったり

しました。つまり、ひとつの家族のコミュニティの中に警官や医者、学校の先生

などが存在し、そこですべてが完結していたのです。結婚にしても親同士が

決めるのが通例でした。

そのため、今よりも濃厚な家族同士のコミュニケーションがあり、人々は

孤独という概念すら知らないまま一生を終えます。

 

その当時の国家は個人に納税を催促しなくても、コミュニティの

長老に催促するだけで解決します。長老はこの家族がどれくらい生産性があるか

知っているからです。

国家は必要以上にコミュニティへ圧力を掛けることなく、必要最低限のことしか

しません。そこで完結していたため、警察や、病院、学校などを作る

必要がなかったからです。

もし、コミュニティに圧力を掛けようものなら、結束が固いため、強い反発に

あう可能性が高くなります。

 

産業革命で資本家が台頭してくると、このコミュニティが邪魔になってきます。

結束が固すぎると、労働力が手に入らないからです。

資本家は国家とグルになって、このコミュニティの解体を目論みます。

そこで国家は「親の許可なく結婚してもいい。親に関係なく好きな仕事に

ついてもいい。どこに住もうが自由だ」すべての人は自由でいいと言います。

国家と資本家がすべて面倒をみることを宣言したのです。

 

自由主義に翻弄された人々は農村から都市に出てきたのと同時に

コミュニティは消え去り、今のような個人の孤立が確立されました。

僅かな賃金と引き換えに失ったものは、かなり大きかったのではないでしょうか。

 

多くの人が自由を欲しがります。

自由こそ人間が生きる意味だと言って。

 

しかし、自由の意味をはき違えています。

自由は何してもいいのではなく、自分の行動や発言に責任を持つことです。

その対価として自由が与えられるのです。

産業革命時に国家や資本家が自由を約束したなら、しっかり責任を持って

個人を導くべきです。

今の社会を見ていると、どこか自由主義に翻弄され、個人が置いてけぼりを

くっているように感じます。

 

今の時代だからこそ、家族や友人たちとのコミュニティを再度考え直し

結束を強めていくことが、不安なく生きていける方法かもしれません。