有心の百錬、鋼を成す!

常に自分の成長を目指して!

親切に感謝 何気ない日常に感謝 できる人間は逆境にも感謝

わたしは感謝という言葉が好きだ。

座右の銘といってもいい。

最近は太陽に家族に草木に、すべてのものに感謝の念を抱かずにはいられない。

昔はこんなこと考えもしなかったが、感謝することで自分の人生が好転することを

学んでから、変わったのだ。

 

樺沢紫苑、田代政貴著の「THANKFULNESS 感謝脳」によれば

感謝には3種類あり、ひとつは他人がしてくれたことに対してありがとうということ。

ふたつめは日常の何気ないことにありがとう。

最後は逆境にもありがとうと言えることだ。

前ふたつはできる人もいるだろうが、最後の逆境にはなかなか感謝できない。

 

少し前の話になるが、尿管結石を患い、妻に病院に連れていってもらったときが

あった。痛みで苦しかったが、考えることは妻への感謝の気持ちだった。

「支えてくれてありがたい」この気持ちだけで痛みが和らいだものだ。

次の日には痛みが減り、日常生活を無事送れることに感謝を続けた。

石が出るときに激痛を伴うとネット記事で読んだことがあるため、次の病院の日

まで緊張が続いた。しかし、病院でみてもらったときには石らしきものは

なくなり自然と排出されていたらしい。安堵とともにまた感謝である。

思えば感謝することで、このような良いことになったのではないかと思う。

 

わたしのように苦しいときに感謝するのは難しいかもしれないが、せめて

日常の何気ないことには感謝できるようになろう。毎日雨風をしのげる家がある。

温かい美味しいご飯が食べられる。ふかふかのベッドで眠れる。

これらは当たり前のようで、普通ではない。アフリカの貧しい国では

ご飯も満足に食べることができないし、衛生状態も悪く、常に死と隣り合わせだ。

我々は平和な日本に生まれたことに感謝すべきなのである。

 

感謝することはスピリチュアルではなく、科学的にドーパミンセロトニン

オキシトシンと言った幸せホルモンが放出されることがわかっており、

常に感謝することで最高のモチベーションを保つことができるのだ。

 

瞑想したり、運動したり、食事に気を付けることでも心の安定を図ることができる。

しかし、どれも時間がかかり、一歩踏み出すまでが大変だ。

ならば、手軽な感謝をするしかないのではないか。

現代社会のリスク:スクリーン無呼吸と脳の過負荷

日本人は少し前はやせ型でスタイルがよかった。

しかし、段々と欧米型の食事が一般化して、気付いたときにはデブ、、、

いや口が滑りそうになった。ふくよかで包容力が大きそうな人が増えたことか。

 

それに伴って無呼吸症候群のような新たな疾患も出現してきた。

ご存じの方も多いので詳しくは記述しないが、寝ているときに呼吸が止まるのだ。

溜まった脂肪で気道が圧迫されて閉鎖するためだ。

お金は一向に貯まらないのに脂肪ばかり溜まっていく。

本人の自覚が足りなかっただけと言ったらそれまでだが、今それと同じように

新たな疾患が生まれようとしている。

 

それは「スクリーン無呼吸」だ。

PCやスマホを見ているときに呼吸が浅くなったり、止まったりしているのだ。

2023年のニューヨーク・タイムズで紹介され話題になったが、同記事に登場する

ノースカロライナ大学の精神科医ティーブン・ポージスはなぜ起こるのかに

ついて言及している。

人が何らかの刺激に直面すると、それが脅威であるかどうか身構えるために

呼吸のリズム変わると解説している。

彼は猫が獲物を狙うとき、呼吸を浅くして身を固める動作を例に出し、

こうした反応がたまに出る分には問題ないが、慢性的に神経系が脅威を感じるような

状態が続く場合は、疲労度が高まると懸念している。

そもそもストレスとは、生物が自らを防衛するために備わった機能だ。

外敵と戦ったり、逃げたりするためにだけに、ストレスが必要になっていたのに、

今はスマホの刺激によって毎日、毎時、外敵との闘いに明け暮れている。

これでは精神疾患にならない方がおかしいのだ。

 

ここでひとつ疑問が起きる。

これほど脳に障害を与えるスマホになぜ脅威に感じないのか?

 

答えは簡単だ。

あまりの負担に脳が限界を超えて、麻痺してきているためだ。

冷水の中に手を入れていたら、ある一定時間を過ぎると痛みが減ってくるのと

同じだ。脳が麻痺しているため思考が停止し、また情報に流される。

まるで傀儡人形のようである。

この状態でまともな人間になることはない。いつまでも搾取されながら

底辺の生活をするしかなくなるのだ。

 

今の快楽を得るか将来の成功という快楽を得るか?

この別れ道は厳しい選択になるだろう。

 

我慢を知らない若者へ 今こそ歯を食いしばって生きるのだ

自分のことは棚に上げるが、それでも言いたい。

「最近の若者は我慢を知らない」

 

YouTubeでも時短でまとめたものが人気だ。映画すら倍速で見ている。

TikTokはリールで眺めて、全部を見ることは稀だ。

 

若者はこれをタイパがいいと反論しそうだが、根本的にみていくと

我慢が足りないのである。

 

現代社会は、いつでも、どこでも情報を受発信ができ、自分がした行動に

すぐに数値化されたフィードバックを得ることができる。

簡単に言えば、SNSの投稿にすぐに「いいね」がついて自分の行動が正当化

されるのである。

このような時代背景があり、若者中心に自己効力感が肥大してきているのを

感じる。自己効力感とは、ある状況において「自分ならできる」「きっとうまくいく」

と自分で認識することである。

つまり、世の中を甘くみてしまうということだ。

 

わたしのブログでは投稿しても一日経ってようやく一人か二人が見る程度である。

しかし、SNSは投稿すれば、すぐに反応してくれる。まるで有名人になったようにだ。

また、アマゾンで注文すれば次の日には到着する。広告は自分の興味のあるもの

ばかり。動画を見終われば、次の動画までご丁寧に自動再生してくれる。

 

甘やかされ過ぎて骨抜きにされた若者たちは、我慢を知らず、わがままになり

そして現実に躓く。生身の人間関係や受験などの社会システムは、思い通りには

いかないからだ。引きこもり、結婚できない若者、会社をすぐに辞めてしまう新人。

この社会不適合者たちを生んだ張本人は、まさしくネット社会であろう。

 

この問題は今後も拡大していく一方だろう。

ネット社会はAIをはじめとして進化を続けていくからだ。

 

戦後間もないころは、食べ物もなく我慢することが当たり前だった。

今は物資も情報も溢れ過ぎていて、我慢は逆に体に悪いとまで言わんとする風潮で

ある。しかし、我慢こそ人間を成長させるのだ。我慢ができない人間は

絶対に成功しないし、自分の人生を楽しむことができない。

 

だから、声高に叫ぼう

「若者よ。我慢せよ」

「今の生活に満足してはいけない。我慢して少し上の階級に行くのだ」

 

今すぐ買えるものは我慢しろ。一年貯めないと買えない高価なものを買うのだ。

軽自動車を買うよりレクサスを買ったほうが満足度が高いだろう。

1000円の時計よりカルティエの時計を買ったほうが人間の格が上がる。

 

誤解されそうだが、なにも無駄金を使って浪費しろと言っているわけではない。

高価なものを我慢して買うとは、自分としっかり向き合い対話を重ね、

懸命に働くということである。

今の若者に足りないのは、この必死さなのだ。

何の仕事でも構わない。世のため人のために一所懸命働いていれば

神はあなたを絶対に裏切らない。祝福として素晴らしい人生を与えてくれるだろう。

混沌とした希望のない今だからこそ、歯を食いしばって生きるのだ。

 

 

 

女性のコミュニケーションとストレス

「女性のストレス発散はしゃべることである」

 

これは尊敬してやまない愛する妻の名言である。

確かに女性は話すことが大好きだ。

職場でも友人とでも、ひっきりなしにしゃべっている。

 

でも、ひとつ疑問がある。

これだけ毎日しゃべりまくっているのに、ストレスがあるのはなぜだろう?と。

毎夜歯ぎしりとくいしばりを繰り返し、マウスピースを砕いていく。

話すことはストレス発散なのではないのか。

 

女性がここまで会話を重視するのは、旧石器時代に遡る。

男どもは狩りに出掛け、何日も帰らない日々が続く。女性たちは採取をしたり、

子育てをして群れを守る。群れの他の女性と仲良くすることは自分や家族の

命を守ることに直結する。そのため女性同士のコミュニケーションが発達したのだ。

 

つまり、会話が上手にできない人間は群れから追い出され孤立してしまう

恐れがあるのである。これは現代も遺伝子に刻まれ色濃く残っている。

 

では、なぜしゃべりまくってもストレスがなくならないのか?

それは話す内容が問題だからだ。

悩みを解決してくれる僧侶の説法や前向きな啓蒙的な話ならば、ストレスは

減ってくるはずである。しかし、どの女性にしても話す内容は愚痴や悪口など

ネガティブな話がほとんどである。自慢話でマウントを取る人さえいる。

 

孤独にならないために会話をしているのに、気付かないうちにネガティブな

雰囲気にあてられて気分が下がっていくのだ。まるで癌細胞のようだ。

会話でストレスが発散するという思い込みと言う名の呪縛から解き放たれなければ

決して幸せな人生は歩めない。

 

相手がいる以上、話を避けるのは難しい。ならば、せめて自分から振る話題くらいは

明るいものを選ぼう。世の中を悲観せず、常に明るく生きるべきだ。

笑いを取る必要はない。明るく生きているだけで楽しくなるものだ。

なにも相手を楽しませる必要はない。

 

妻よ。しゃべるのが大好きなら私ともっと話したらどうなのだ。

私ならば哲学や仏教のような明るく楽しい会話ができるはずだ。

しかし、そんなことより動画の方が楽しいと言って、またスマホを見始める妻で

あった。夫婦関係は時代が変わっても、いつも旧石器時代のような氷河期なのである。

暇な時間は怖くない 暇な時間こそ人生に余裕をもたらす

「会社員は奴隷である」

 

こんなこと書いたら善良な会社員に叩かれそうだが、社畜ブラック企業という

言葉があるように、奴隷のように働く人が多いのも事実だ。

 

資本論で有名なカール・マルクスを研究している斎藤幸平氏東京大学大学院准教授)

は著書「人新世の資本論」の中でこう書いている。

「資本主義に生きる労働者の在り方を、マルクスはしばしば奴隷制と呼んでいた。

意志にかかわりなく、暇もなく、延々と働くという点では、労働者も奴隷も

同じなのである。いや、現代の労働者の方が酷い場合すらある。古代の奴隷には

生存保障があった。替えの奴隷を見つけるのも大変だったため、大事にされた。

それに対して、資本主義のもとでの労働者たちの替えはいくらでもいる。

労働者はクビになって、仕事が見つからなければ、究極的に飢え死にしてしまう。」

 

つまり、現代の労働者には明日を生きられる保証がないということである。

 

この希望がない現実が、スマホSNSの依存へと拍車をかける。

満たされない生活に、少しでも拠り所を探そうとするのが、人間の常である。

 

しかし、会社の奴隷のなっている人を、さらに狙う捕食者がテック企業や

eコマースである。彼らが商品を買わせようと、あの手この手で攻めてくる。

毎日うんざりするほどの広告を見せられ、気付いたときには無意識にタップ

してしまい、記憶にない買い物をしている。消費者も現代の奴隷なのである。

 

この二重搾取(税金も入れれば三重)によって、我々は貧乏から脱出できない。

これが格差社会の原因なのだ。

 

この構造の根本的な原因は、意外かもしれないが、暇の持て余しなのである。

毎日忙しく、他事をする暇がないと思う人が多いが、事実、スマホを触ったり、

テレビを見たり、寝転んだりして時間が過ぎている。

人は暇な時間を贅沢な時間だとは思わずに、何かしなければならない焦燥感と

不安によって、なにかで時間を埋めようとする。

「みんな暇が怖いのだ」

そのため日の出から働き始め、日付が変わる頃に帰宅する。

スマホでニュースや動画を見て、一日が終わってくれるのを待つ。

これが充実感だと誤解しているのだ。

 

本当はゆったりとした時間の中で、自分の好きなことをすることが人生のはずなのに。

ゆとりある時間が充実感だと気付けば、奴隷から解放され自分の人生を歩むことが

できる。今日という良い日に奴隷解放宣言をしよう。

 

 

会話は記号の交換でしかない 言葉に感情を込めるのだ

あなたは次の言葉の意味がわかるだろうか?

「はちみつ」

 

馬鹿にしているのか、と怒りを露わにする人が5万人ほど見えます。

実際にはわたしのブログを見ている人は数人なので、そこまではいないが。

 

では、次の言葉はどうだろうか?

「Miel」

 

調べればすぐに解ると思いますが、フランス語ではちみつだ。

 

同じ意味の言葉なのに、まったく違ったものに見える。

これはフランス語を知らないということではなく、言語とは本来記号でしかない

のである。はちみつにしてもHunnyでもMielでも、自分の知っているイメージと

記号が一致して初めて理解ができる。

 

つまり、言葉を理解するとは、自分の中でイメージが具現化されることである。

 

話が上手な人は相手にイメージしやすいように話している。

いかに鮮明にイメージさせるかが肝である。

 

「外は豪雨が降っていた」より

「外は横殴りの嵐で、服は濡れて寒気がする」と言った方が情景が目に浮かんで

くるだろう。

 

文字で表せば簡単に思うかもしれないが、実際わたしたちの会話で使わている

のは前者の方だ。

「今日は暑い」「疲れた」「面白い動画がある」

思い当たる節があるのではないか?

 

これでは会話ではなく、単なる記号の交換である。

言葉を伝えるのではなく、「自分の感情」を「自分の持っているイメージ」を

伝えることが真のコミュニケーションなのだ。

 

それを怠っているため、いつまで経っても相互理解ができないまま

すれ違ってしまう。それは会話が苦手なのではなく怠惰なのだ。

 

人と仲良くなれない人は会話ではなく、記号の交換をしているに過ぎない。

そこに自分の感情を込めてこそ、相手にもそれが伝わり、心を開いてくれるのだ。

 

普段、呼吸と同じように意識をしない会話であっても、奥深く大事なものである。

一度意識をしてみたらどうだろうか。

 

 

 

 

平等という呪詛

わたしたちは生まれたときから平等であると洗脳されてきた。

憲法でも法のもとに平等を謳っている。子どもの運動会でも順位を付けない

学校もあれば、みんな一緒にゴールしましょう、という脳が溶けている学校もある。

 

しかし、現実は不平等である。

資産が30兆円を超える大富豪もいれば、世界で大活躍するアスリートもいる。

勉強を頑張り東大に現役合格する者がいる一方、浪人を繰り返し、就職もできず

アルバイトで生計をたて、ひとり寂しく生きる者もいる。

 

繰り返すが、この世の中に平等なものはない。

あるとすれば、時間くらいである。(正確には時間も平等ではないらしいが)

男女の平等も声高に叫ばれているが、未だに女性は男性に比べて就職には不利だし、

どこかの医大の入試では男子に下駄をはかせ、女子をふるい落としたところもある。

 

平等を信仰するものが多過ぎる故に、現実とのギャップに絶望し未来を悲観する。

「税金が高過ぎる」

「政治家は死んでしまえ」

「お金持ちは悪いことをして稼いでいるに違いない」

このような愚痴をこぼしてないだろうか?

ネットに書き込んでいないだろうか?

 

なぜ愚痴がでてくるかというと、自分の人生に不満があり、他人と比較するから

である。満たされた生活を送っている者は愚痴などこぼさない。

わたしもそうである。

平等だと思い込んでいるため、自分よりも成功している人を攻撃し貶めようとする。

つまり、成功している人が羨ましいのである。

しかし、自分を上げることができないので、仕方なく他人を落とすしかない。

貧乏人でいつも愚痴を言って、他人を攻撃している人が宝くじや競馬で

大当たりが当たれば、立場が変わるのが世の常。

愚痴やたかりを受ける側に変わるのである。

 

平等という呪詛を解くには、この世は不平等だという事実を受け入れ、

SNSに翻弄されず、自分の人生だけを見据えて生きればいい。

愚痴をこぼさず懸命に働き、節約し、投資する堅実な人生を送れば

気付いたときには、あなたも成功者になっている。

 

くどいようだが、この世は不平等である。

ならば、羨ましく思われる側に立とうではないか。