待ちに待った桜の季節です。
あちらこちらから届く満開の知らせに心が踊ります。
いつもこの時期は京都にお花見に出掛けるのですが、京都の神社仏閣はすごい
人でごった返しています。外国人観光客も増加して、とても落ち着いて
写真を撮る時間がありません。非常に残念な気持ちです。
そんな神社仏閣で疑問に思うのがお賽銭です。
なぜみんなお金を投げ入れているのでしょうか?知っていますか?
昔は神様にお米を奉納することが多かったと言われます。
古代日本史でも租庸調と言われる税収をみたことありますよね。
租はお米。庸は労役。調は織物です。どれかを税金として国に納めていた歴史が
あります。その当時、和同開珎と言われる日本最古の貨幣が製造されていましたが、
まだ一般にまで広がってはなく、お米は貨幣の代わり、いやお金そのものと
言ってもよいでしょう。
その流れは江戸時代まで続き、豊かさを石高(お米の収穫量)で表したくらいです。
では、お米から貨幣に変わったのはなぜでしょうか?
それは古代中世の日本人は貨幣には「まじないの力」があると感じていたからです。
そのように貨幣をみなすことを「厭勝銭(ようしょうせん またはえんしょうせん)」
というのですが、これは貨幣の形をした護符の一種なのです。厭勝銭は漢の時代に
中国で流行したもので、見かけは貨幣とそっくりなのですが、福徳の力があると
信じられていたものです。
ところが、これが唐銭、宋銭とともに一緒に入ってくるとごっちゃになって
しまったのです。
もともと貨幣を使うことに慣れていない日本人は貨幣の通貨性を認識できません
でした。そのため銭が手に入ると厭勝銭と勘違いして、これを洗ったり、
神社に納めたりして浄化する習慣ができました。各地に銭洗い弁天のようなところが
あるのはそのせいですし、お賽銭がここまで定着したのはこれが起源だったのです。
お賽銭の本来の意味は自分の利益を神様にお願いするためではなく、浄化して
清めることが目的です。リターンを求めるのではなく、神様に感謝をして
清く正しく生きることを再確認していたのです。
お賽銭を投げ入れるときはこのことを思い出して、自分の身を清めましょう。